高橋みきブログ

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名古屋出身、神奈川在住のワーママです。 関東のラジオ番組のオススメやラジオに関すること、旅行やお出かけのこと、お気に入りの海外番組(ellen)のエピソード、映画、洋楽のこと、本のこと、料理レシピ備忘録 などなど。Be kind to each other!

川端康成「山の音」に出てきた「沼」と「赦し」と「蓮」

鎌倉旅行に向けて小説を読む

先日、午前中だけ鎌倉に行ってみたのですが、今度は本格的に1泊旅行に行こうかと思っていて、鎌倉が舞台の小説をいくつか読むことにしました。

評判のレストランや観光名所を探すのは、Instagramで検索したり、ガイドブックを見て探せるけれど、その土地を題材にした小説を読むと、聖地巡礼感があるし、実際にその場所へ行くとより感動が味わえそうだな、と思ったのです。

インターネットで「鎌倉 舞台 小説」と入力していくつか候補が出てきたので、その中から評価のよさそうなものをピックアップしました。

そして、最初に手にとったのが川端康成の『山の音』でした。 

山の音 (新潮文庫)

山の音 (新潮文庫)

 

「山の音」は何の音なのか?

主人公は、戦後すぐの頃に鎌倉に暮らす60代の会社役員の男性で、女中部屋もあるようなそれなりのお屋敷に住んでいます。

そこには主人公夫婦と、同じ会社に勤めている息子とその嫁、そして途中から、出戻ってきた次女と二人の幼子が暮らしているのだが…、という家族の物語です。

鎌倉の、山寄りにある家で、主人公は、近くの山からふいに「山の音」が聞こえます。

主人公が怖いと感じたその「山の音」は、本のタイトルにもなってるので、主人公が感じる自身の「老い」だけではなく、家族の間に起こった波風や、息子が巻き起こす出来事など、「自分の力ではどうしようもできない運命が動くさま」を象徴しているのではないかと思いました。

息子がしでかす出来事というのが、昼ドラばりのドロドロな感じなので、こういう夫婦や家族の問題って、時代は関係ないのだな、と思ったり。

「沼」と「赦し(ゆるし)」

その中で、「夜の音」の章に「沼」と「赦し」が出てきました。

 修一の被害者である菊子が、修一の赦免者でもあるようなわけだ。

 二十を出たばかりの菊子が、修一と夫婦暮しで、信吾や保子の年まで来るのには、どれほど夫をゆるさねばならぬことが重なるだろうか。菊子は無限にゆるすだろうか。

 またしかし、夫婦というものは、おたがいの悪行を果てしなく吸いこんでしまう、不気味な沼のようでもある。絹子の修一にたいする愛や、信吾の菊子にたいする愛などでも、やがては修一と菊子との夫婦の沼に吸いこまれて、跡形もとどめぬだろうか。

 戦後の法律が、親子よりも夫婦を単位にすることに改まったのはもっともだと、信吾は思った。

 「つまり、夫婦の沼さ。」とつぶやいた。

 「修一を別居させるんだな。」

 心に浮かぶことを、うっかりつぶやく癖も、信吾の年のせいだった。

 「夫婦の沼さ。」とつぶやいたのは、夫婦二人きりで、おたがいの悪行に堪えて、沼を深めてゆくというほどの意味だった。 

山の音 (新潮文庫)

山の音 (新潮文庫)

 

小説に出てくる「沼」と言えば、私が真っ先に思い浮かべたのは遠藤周作の「沈黙」でした。「沈黙」では「沼地」や「泥沼」と表現ですが。

この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

「沼」と「赦し」という、「沈黙」の中でもかなり重要なキーワードが、「山の音」の中に突然さらりと出てきたので、私はびっくりしました。

そこで、雑誌に連載されていた「夜の声」が発表された年と「山の音」が刊行された年の、二人の作家の年齢を調べてみました。(川端康成 - Wikipedia 遠藤周作 - Wikipedia

「山の音」発表年の川端康成と遠藤周作の年齢

遠藤周作が作家活動を始めた頃には、すでに川端康成は50代で、文壇の大御所だったはずです。

「山の音」は「戦後日本文学の最高峰と評され」ているほどの作品なので、遠藤周作がこの作品を読んでいないとは考えにくい気がします。

ただの偶然の一致かもしれないけれど、もしかしたら、川端康成の「山の音」が遠藤周作の心のどこかに残っていて、ここから着想を得たものなのかもしれない、と思いました。

しかも「沼」だけでなく「赦し(ゆるし)」がセットで出てくるので、なおさらです。

「沼」と「蓮」と「苗」

「山の音」の「沼」は夫婦の関係を例えていて、「沈黙」の「沼地」は日本の当時の国のあり方や人々の心情など様々なものを象徴しています。

「山の音」の「沼」は何もかも吸い込んでしまい見えなくしてしまう。

「沈黙」の「沼」はすべての根を腐らせ枯らしていく。

でも、どちらも沼に吸いこまれても、残ったものがありました。

「山の音」は古代の「蓮の実」。

沼で育つ蓮。古代の実は固い殻の中で命を守り、何千年もの時を経て美しい花を咲かせました。

それと同じように、息子の愛人が堕胎を拒否して子どもを生もうとしている。

嫁は息子の所業をゆるして、主人公夫婦や小姑とその子どもたちを受け入れていました。

「沈黙」は信仰という名の「苗」。

ロドリゴは信仰を捨てていませんでした。苗の根は枯れてはいませんでした。

事実、深い沼の底で、潜伏キリシタンたちは信仰を守り続けていました。

ロドリゴは裏切り続けるキチジローをゆるしつづける。

そのゆるしでロドリゴもキチジローも心が救われる。

このようなところも、共通点ではないかなと私は思いました。

沼のようにすべてを受け入れることが愛で、それが命を引き継いでいくのかもしれません。

 

別の観点としては、昭和時代の小説家の中で、人間の業やどうしようもなく変わらないものの象徴として「沼」を使うのが流行っていたのかもしれません。

でも「山の音」刊行から「沈黙」発表まで12年開きがあります。「沼」ブームにしては長過ぎるような。

ここ最近は「沼」と言ったら、抜け出せないほどハマってしまった趣味、みたいな意味で使われていますね。

文学部の学生さんで、「近代小説の中で用いられる「沼」についての考察」なんてテーマで卒業論文を書いてくれる人がいたらぜひ読んでみたいです。

 

<参考文献>

「山の音」におけるハスの新聞記事について 管 虹 Guan Hong 

現代社会文化研究 (22), 287-303, 2001-11 新潟大学大学院現代社会文化研究科

 

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